遣唐使の菓子を作り続ける和菓子屋さん 清浄歓喜団
和菓子の歴史は遣唐使の漢方薬であり、本来スパイスや雑穀などが用いられていたが、砂糖の開発に寄り今のスタイルへと変化していった。
そんな歴史の面白さを今に伝えてくれる有り難い和菓子屋が八坂神社前にある。
個人的にこの手の文化伝統保持の観点から★5をつけさせていただきます。
某寺院より供物として頂きました。
以下は当店webよりの引用です。
味や風味はご自身で体験してほしいので記載致しません。
遠く奈良時代、遣唐使が仏教と共に日本へ持ち込んだ唐菓子は、「からくだもの」と呼ばれ、
唐(中国)から、八種(やくさ)の唐菓子と十四種の果餅(かへい)、その製造方法が我国に伝えられました。
天台宗、真言宗などの密教のお供えものとして使われ、当時の一般庶民はとても口にすることはできず、
貴族のみに与えられた食べ物でした。
奈良時代に伝わった唐菓子の一種「団喜」です。略して「お団」と呼ばれています。 数多い京菓子の中で、千年の昔の姿そのままに、今なお保存されているものの一つで、この「清浄歓喜団」なしに和菓子の歴史を語ることはできません。
亀屋清永はこのお菓子を製造する日本で唯一の和菓子処です。
「清め」の意味を持つ7種類のお香を練り込んだ「こし餡」を、米粉と小麦粉で作った生地で金袋型に包み、八葉の蓮華を表す八つの結びで閉じて、上質な胡麻油で揚げてあります。
伝来当時は、栗、柿、あんず等の木の実を、かんぞう、あまづら等の薬草で味付けしたらしく、小豆餡を用いるようになったのは徳川中期の後と伝えられています。
亀屋清永は、その秘法を比叡山の阿闍梨(あじゃり)より習い、月の一日、十五日を中心に調製しています。もちろん精進潔斎の上、調進することは昔も今も変わりません。
餢飳(ぶと)
「餢飳(ぶと)」は、奈良時代に伝えられた十四種の果餅の一つで、今日まで主に神社の祭礼の「神饌果」として供えられ、宮中や貴族の間でも用いられた食べ物です。「団喜」と同じく、千年の昔の姿そのままに、今なお保存されています。
「粒餡」を、米粉と小麦粉で作った生地を、丸く平にして「粒餡」を乗せ、二つに折って、兜(かぶと)形にして、上質な胡麻油で揚げてあります。
伝来当時は、かんぞう、あまづら等の薬草で味付けをしていました。亀屋清永では、甘めを控えたものに仕上げ、天平の昔のよすがをとどめております。
Restaurant name |
Kameya Kiyonaga(Kameya Kiyonaga)
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Categories | Japanese sweets |
Phone number (for reservation and inquiry) |
075-561-2181 |
Reservation Availability |
Reservations available |
Address |
京都府京都市東山区祇園石段下南側534 |
Transportation |
463 meters from Gion Shijo. |
Opening hours |
Business hours and holidays are subject to change, so please check with the restaurant before visiting. |
Budget(Aggregate of reviews) |
~¥999¥1,000~¥1,999
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Method of payment |
Credit Cards Accepted (VISA、Master、JCB、AMEX、Diners) Electronic money Accepted |
Private dining rooms |
not allowed |
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Private use |
not allowed |
Non-smoking/smoking |
No smoking at all tables |
Parking lot |
not allowed |
Occasion |
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Service |
Take-out |
Website |
駐車場:無し
祇園にある老舗の亀屋清永です
こちらには遣唐使が持ち帰ったという面白いお菓子、清浄歓喜団(せいじょうかんきだん)と餢飳(ぶと)があります。
以前妙法院で歓喜団は頂いたので、今回はぶとを購入。油の香ばしか、スパイスの香りと独特の風味が面白い一品です。
和菓子は中国から伝わり当時は漢方の一種で様々な穀物を詰めたり、穀物糖分から甘味を引き出していたものが、砂糖の普及により甘味が加わり今の餡のスタイルになります
遣唐使とは犬上御田鍬、吉備真備、空海などを中国に派遣し先進技術と経文を導入目的で派遣していたのもですが、藤原氏が邪魔な菅原道真を遣唐使で飛ばそうと目論んだのが契機となり菅原道真が遣唐使がを廃止し「東風ふかば…」の歌を詠み大宰府に飛ばされるということになります