점포명 |
Onna Shuuchou
|
---|---|
장르 | 이자카야、오키나와 요리、오키나와 소바 |
예약・문의하기 |
070-8470-6250 |
예약 가능 여부 |
예약 가능 |
주소 |
沖縄県八重山郡与那国町与那国5-2 |
영업시간 |
영업시간과 휴무일은 변경될 수 있으니, 방문하기 전에 식당에 확인하시기 바랍니다. |
예산(리뷰 집계) |
¥3,000~¥3,999
|
개별룸 |
가능 |
---|---|
금연・흡연 |
− |
공간 및 설비 |
자리가 넓은 |
요리 |
생선 음식을 고집함 |
---|
이럴 때 추천 |
많은 분이 추천하는 용도입니다. |
---|---|
오픈일 |
2007.10.29 |
日本最西端の旅
さとやでこの日2回目の、かなり遅い昼食をさせてもらえたのは、とても有益であった。
→これで、観光に有利な時間帯に祖納に行く必要がなくなり、時間をかけて与那国島東部の観光が出来たからである。
東海岸では、立神岩や東崎(あがりさき)を見学。
奇妙だったのは、東崎名物の与那国馬が、1頭も見られなかった事。
…観光客も人っ子ひとりいなかったし、まるでゴーストタウンのようであった。
→訪れた時間帯(東崎にいたのは、16時台の後半)が悪かったのだろうか?
むしろ西海岸の方で、たくさん(の与那国馬を)見かける事が出来た。
(ちなみに東崎の駐車場付近では牛がたくさん見られたが、やはり与那国馬はいなかった)
東部の観光を済ませ、今度は西に向かい、途中、祖納に立ち寄った後は与那国空港を右手に見つつ、久部良港に到着。
こうして与那国島をとりあえず1周した私は、再度、日本最西端の地・西崎(いりざき)に向かった。
→日本一遅い夕日を眺めるためである。
この日の日の入り時刻は18:40…私が住む新潟県の日の入りがこの時刻になるのは、5月の初旬(笑)である。
晴れていたので、途中までは素晴らしい夕焼けが見られたが…この日の太陽は、水平線には沈まなかった。
18:34分(時計にて確認)、太陽は水平線上にうっすらとかかった雲の中に消えてしまったからである。
それにしても…2月なのに、19時を過ぎてもうす明るいのであるから、本当に驚きだった。
2015年2月12日訪問
与那国島1周の際に祖納で場所を確認した私は、夜になって、その店を訪れた。
入ったのは居酒屋 女酋長という店である。
店名がとっても魅力的♪(笑)なので、ぜひとも入ってみたかったのだ。
ここは居酒屋とはいえ、車での訪問なので、酒は御法度!!
あくまでも、夕食での利用である。
店頭には、おばちゃんのグループがたむろしていた。
→これから飲み会のような雰囲気だった。
店に入ると店内には、小上がり席とテーブル席、それと、カウンター席もあった。
私は6人かけテーブル席に着いた。
「食事のみ」と告げると、「時間がかかる」といわれたが、納得ずくで待たせてもらった。
実際にだいぶ待たされたが…
まさかビールを飲む訳にも行かなかったので、店にある雑誌を読みながら、しばしのウエイティングタイム!(苦笑)
結局、沖縄そばを注文。
こちらのメニューには、「与那国そば」でも「八重山そば」でもない、「沖縄そば」(600円)と書かれていた。
出された「沖縄そば」は、平麺で形状はきしめんのようだが、きしめんよりも麺の幅はせまく、色は白い。
→この見た目から、八重山そばではない事ははっきりとわかった。
翌日(2/13)知る事になる情報ながら、そばが与那国で製麺されたものであれば「与那国そば」なんだろうけど…
「沖縄そば」の表記が気になっている。(与那国そばであれば、沖縄そばとは書かないはずなので)
ちなみに翌日食べた「与那国そば」は、こちらで食べたものよりも、麺の太さが細かった。
「沖縄そば」というネーミングのせいか、本島で食べたものに近いような気がしたんだけど、気のせいだったのかな?
いや…明らかに麺は、翌日に他で食べる事になる2軒の与那国そばよりも、太かったと思う。
麺の太さについては…
正確には比べてはいないけど、↓以下のような印象を持っている。
きしめん(参考)>沖縄そば>与那国そば>八重山そば
具は…カマボコと三枚肉。
すりショウガと紅ショウガがトッピングされていた。
厨房内には男性が見えたが、その他に女酋長!…ではなく、おばちゃんスタッフがひとり。
車での訪問だったために飲めなかったが、ここはやはり、居酒屋として利用したかったね。
おいしかった、ごちそうさま。
【与那国をおさめていた女酋長・サンアイ・イソバ】
1500年に石垣島のオヤケアカハチが中山(琉球王国)に滅ぼされた後も、与那国島は八重山には属さずに独立国であった。
その国の統治者として君臨したのが、伝説のサンアイ・イソバという名の女酋長である。
巨体と怪力で知られ、4人の兄弟を島内に配置しておさめていたと伝わる。
巨大な草鞋を海に流し、島には巨人がいると外部に思わせて、敵が島に近寄らないように図ったという伝説もあるとの事。
1500年、八重山諸島のオヤケアカハチの乱が平定され、琉球王国配下の宮古島の軍勢が与那国島にも攻め寄せた。
→これを撃退したとも、攻め滅ぼされたとも伝わる。
しかし…
中山軍は与那国にも軍船を分派したが、地形に阻まれて港にすら入れなかった…というのが、史実に近いのではなかろうか?
(サンアイ・イソバは伝説上の人物であるし、予断は禁物とはいえ、与那国が、琉球を統一した中山にかなうとは思えない)
オヤケアカハチの乱時(1500年)には併合を免れた与那国だったが、結局1522年(一説には1510年)には琉球王国の支配下におかれ、八重山諸島全域は名実共に琉球王国の一部分となった。
女酋長・サンアイイソバは、古代の祭政を司る女性の力を象徴しているという説が、もっとも説得力があるように思える。
※参考:ja.wikipedia.org/wiki/サンアイイソバ