わが庵（いほ）は　みやこの辰巳（たつみ）　錆ぞ吹く　これ緑青（ろくしやう）と　人の云ふなり : Tatsumiya

江都（えど）・東京（とうけい）は、幾度（いくたび）も火に遭（あ）ひ粗方（あらかた）焼け野原（のはら）に。
古（ふる）くは明暦の大火（たいか）に始（はじ）まり、大正十二葵亥（:みづのとゐ） 年の大地震（おほなゐ）、
近（ちか）くは昭和二十乙酉（きのとゝり） 年まで續（つゞ）く先（さき）の大戰（おほいくさ）。
その度（たび）に、夥（おびたゞ）しき七珍萬寳（しつちんまんぱう）さながら灰燼（かいじん）となりにき。

大地震（おほなゐ）の後（のち）の商家（しやうか）に際立（きはだ）ちたる徴（しるし）とは、
木造（きづくり）の家（うち）を覆（おほ）ふ意匠（いしやう）凝（こ）らした銅（あかゞね）の板（いた）。
近頃（ちかごろ）、これを「看板建築（かんばんけんちく）」*)と號（よびな）す。
戰（いくさ）の後（のち）に衰（おとろ）ふれば、これ、戰（いくさ）に燒け殘（のこ）りたる證（あかし）。

神田、根津のみならず、舊（もとの）東海道、さらには近くの「見晴らし道り商店街」に今なほ遺（のこ）る。
この日（ひ）偶（たま）さか、大井ゼエムス坂**)にも幾棟（いくむね）か遺（のこ）れるを知（し）る。
その内（うち）の一軒（いつけん）がこちら辰巳屋。
斜（はす）向かひには八百屋の杉浦商店、筋向（すぢむ）かひには海苔屋のみの屋海苔店。

さらば、この邊（あた）り悉（ことゞと）く戰災（せんさい）に燒け殘（のこ）りしは疑（うたが）ふべきにあらず。
とは云へ、寂（さび）れ衰（おとろ）へ、つゆ、往時（いにしへ）の煌（きらめ）きを留（とゞ）めず。
飾（かざ）り氣（け）もなく、たゞ青（あを）く詫（わ）びた銅（あかがね）に昔（むかし）を偲（しの）ぶばかり。
已（すで）に晝（ひる）めしも濟（を）へければ、辨當（べんたう）の類（たぐひ）眼中（まなこのなか）になし。

女將（おかみ）に店（みせ）の由緒來歴（ゆひしよらいれき）を訊（たづ）ぬれど、詳（つまび）らかならず。
向（む）かひの八百屋杉浦商店また然（しか）り。
試（こゝろ）みに求（もと）めしは「メンチカツ」、「コロツケ」、合（あ）はせて値（あたひ）百八十圓也。
歸（かへ）りたる後（のち）、徐（おもむろ）に袋（ふくろ）より取（と）り出（いだ）してこれを味（あぢ）はふ。

豬油（らあど）で揚げたものとおぼしく、その衣（ころも）、時（とき）經（ふ）るも萎（しほ）るゝ兆（きざ）しなし。
コロツケに玉蜀黍（たうもろこし）が入るほかは取るに足（た）るものなく、頗（すこぶ）る月竝（つきな）み。
他（ほか）の客（きやく）の買（か）ひ求（もと）めしはさまざまなる辨當（べんたう）の類（たぐひ）。
思（おも）ふに、味（あぢ）よりも佇（たゝづ）まひを愉（たの）しむ店（みせ）。

－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－－
*)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%8B%E6%9D%BF%E5%BB%BA%E7%AF%89
**)http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/hp/menu000001200/hpg000001181.htm