ジャンボ好きの…
ジャンボが大好きなのである。
歳の離れた末弟、三男坊という甘やかされた育った関係でとにかく「全部といっぱい」なるフレーズが好きなのだ。50をとうに過ぎた身の上だが、大盛、特盛、デカ盛、メガ盛、スーパー、ジャンボなどという形容詞がアタマについているだけで、身が震えるほど嬉しくなってしまう。そして今日もジャンボを追求するのである。
「ジャンボコロッケ定食」800円
いつもはジャンボとんかつなのだが、少し趣きを変えてみた。デカい。大皿の2/3が茶の色で覆われているのである。長径にして20㎝はあるだろうか。眺めるだけで、ウキウキとしてしまうサイズである。「コロッケにはソースをたっぷり」といったのは池波正太郎だったか。いや、東海林さだおか、忘れてしまったが先達の教え通り、だばだばソースで頂くのだ。美味い。じゃがいもの甘さととんかつソースの相性がとてつもなくよろし過ぎて箸が止まらない。まことに豊穣なひと時を与えてくれた、大地の神とこちらのマスターに心よりの感謝を申し上げる。
立てるは肉の…
明治45年は西暦でいえば1911年。したがって、100年以上が経過したこととなる。社会体制も生活習慣も、話し言葉も食べるものも現在とはずいぶんと違ってしまったようだ。思えば遠くに来たものだ。などと観て来たかのように語ってしまうが、とはいえそこは同じ日本人、いや、現代のわれわれの基になだけあって、心情的な部分ではあまり変わってはいないようだ。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
とは夏目漱石「草枕」の冒頭部分である。
理屈をいってもだめ、情にほだされても、我をはってもよろしくない。であれば、気にせずわが身のことたけ考えていれば良いのだが、つい周囲をみてしまう。何事も上手くいかないものだ。こんな文章を読んでいると、明治の文豪にも親近感が湧いてくるというものだ。
近年、「忖度」なる言葉が流行したがあんなものは身近なそこここに転がっていることだ。要するに「空気を読んで上手くやれ」という言葉だ。何を今さら、騒ぎ立てるようなことではない。「圭角(かど)」さえ立てなければ問題ない、と考える。
そんな事だから失敗もする。何度やらかしちまった事か。あんな時こんな時なってなかったよなぁ。なんてことはしょっちゅうだ。そんな事は私だけではなく、どこの誰にでもある事だし、日本史にも「やらかしちまった事件」がそこここにある。
司馬遼太郎によれば、こういった日本人的性質は元からある「村社会」の名残と、徳川家康と彼が作り上げた幕藩体制にあるという。そういった根の深さゆえ、簡単には覆すことが出来ない。誠に腹立たしいばかりであるが、よそ様も似たようなものだろう圭角立てず、腹も立たさず静々と参ろうではないか。立てて良いのはとんかつの角ばかりであるべきなのだ。
幼少のみぎりより「ジャンボ」が好きなのだ。通常よりも大きい、とか分厚い、といった表現に心惹かれて幾星霜を費やしたことか。母親から
「お前は全部といっぱい、大きいたっぷりが好きだったから」
と言われるが、それはまったく正解なのである。生まれついての欲張り人間。一般的な意味において50を過ぎて、いささか恥ずかしくなくもないのだが、こればかりは仕方がない。こうなると、「アイデンティティの領域」であるといって過言ではない。ジャンボ・分厚さあっての自分であると言い切って支障はない。周囲からは健康面を注意され、腹回りのあんまりさを笑われるばかりだが、メニューを前にするとそちらに目が行ってしまう。
「とんかつ健」
善光寺の北側、箱清水の地にあるこちらは、「とんかつ」とあるように基本的にとんかつ屋で、メニューも揚げ物が中心となっているが、店内のあちらこちらに短冊状の品書きがあるところをみると、近隣住民の居酒屋、コミュニティとして機能しているようだ。もちろん車だから飲めるわけがないので、おつまみメニューはスルーとなる。あゝ腹がへった。もちろん注文はアレ一択である。
「ジャンボとんかつ定食」
コロッケ、エビフライとならぶ「ジャンボシリーズ」の一廓である。どれもこれも大好きなメニューだが、やはり分厚さ、迫力度からしてこれしかないと確信する。厚さは1.5〜2センチ、といったところであろうか。クキッとした直角が、緊張感を演出する。断面をながめるだけで、多幸感が溢れてくるのは私だけではないだろう。なんのかんの言いながら、肉は「質」以前に「厚さ」あってのものなのである。
揚げたてかつ分厚いとんかつには塩、と言われている。たしかに美味い、否定するつもりはまったくない。しかし、とんかつはソースあってのものなのだ。じゃぶじゃぶソースで、男らしく喰らうのが一番だ。
しかし、ごはんを控えるのを忘れない。食べすぎであることには間違いないのだ。とはいえ、炊きたて熱々のごはんほど美味いものはない。楚々とした冷奴には、北信らしく洋ガラシが添えられている。ツンとした辛味はかえって爽やかな印象を受ける。大根とキュウリのオーソドックスな漬け物も、とんかつの迫力を支える、大事な脇役である。
店名 |
Tonkatsu Ken
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类型 | 炸猪排、食堂、日式小酒馆 |
预约・查询 |
026-234-1404 |
预约可/不可 |
可预订 |
地址 |
長野県長野市箱清水2-12-21 |
交通方式 |
距離善光寺下 815 米 |
营业时间 |
营业时间和节假日可能会发生变化,因此请在参观前与餐厅联系。 |
预算(评价总数) |
~¥999
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付款方式 |
无使用卡 无使用电子钱 |
座位数 |
37 Seats |
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个人包厢 |
不可能 |
包场 |
可能的 |
禁烟・吸烟 |
可全面吸烟 自2020年4月1日起,有关被动吸烟对策的法律(修订后的《健康促进法》)已生效,因此请在访问前与餐厅联系,并且可能与最新信息有所不同 |
停车场 |
可能的 |
空间、设备 |
有吧台座位 |
酒水 |
有日本清酒 |
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此时建议 |
许多人推荐的用途。 |
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位置 |
家庭式餐厅 |
「なんだかんだ身体が資本だからね」
と言われたのはもう35年も前になる。19歳、初めて就職に初めて出勤した日に言われた言葉だ。直属の上司であるA先生。上司だから『先生』は明らかにおかしいのだが、そうとしか表現しようのない存在だからそのままで通すこととする。
学校で習ってきたことなど使えない
とまでは言わないが、どれほど専門課程を受講しようとも、そこで教わるのはあくまでも基礎中の基礎に過ぎないわけで、
「あああれはこういう事だったのか」
と気づくことはしばしばあったが、それもずいぶん経過し、こちらの経験がある程度積まれてからのこと。実際の業務に直接役に立つことはなかなかない。
右も左もわからない、どころか上下左右どこもかしこもアッパラパァな私を、だれもが優しく指導してくださった。みな父親と同年齢くらいの方々だったからずいぶん可愛がってもらったものだ。今でも可愛いけどね。先生だらけの幸せな時代だった。
さようなわけで手取り足取り教え導いてくださったのがA先生。図面の描き方どころか、シャープペンシルの持ち方、トレーシングペーパーの扱い方から懇切丁寧に指導してくれたのだが、覚えの悪いことは今も昔も変わらない。いらいらする場面もしばしばあったと思う。A先生ごめんなさい。
ただ、彼は運転免許証を取得していなかったので、足代わりになれたことは間違いない。あちらの役所、こちらの現場と同行してもらい、そこでまたいろいろと指導してもらっていた。冒頭の言葉は、そんな日々の中で発せられたもの。
身体が弱いわけでも、病気がちでもないのになぜ。とはいうものの、考えてみれば当時の彼は現在の私よりも少し若いくらい。いろいろ出て来る時期だし、ぴちぴちの小僧に今から気をつけておけよ、というほどの意味で声をかけてくれたのであろう。現在に至ってようやく意味がわかってきた。
「とんかつ健」
善光寺北側にあるとんかつ屋さん。そういえばしばらく来てないなと思いお邪魔した。こちらの脂身だらけのこれを食したくなったのだ。
「ジャンボかつ定食」1200円
ジャンボが好きで分厚い肉が好きで、というわりにここらのとんかつ屋さんで見かけない。川中島のかつ善かこちらくらいか。2センチ厚くらいの大ボリュームとんかつ。一切れを箸で持ち上げるのがけっこう大変なほどだ。そしてたっぷりたっぷりの脂身、これが美味いのだ。共喰いではないか、という主張は積極的に無視する。洋ガラシは肉ではなく脂身との相性がよい、と私は思うのだがいかがであろう。厚い肉は塩がよい、という主張には深々と首肯するのだが、やはり私はソースべったり派である。
「いっぱい食べられていいね」
ともA先生から言われた。小柄な彼は食が細く、昼などそば一杯がようやくだった。その傍らで大盛りカツ丼を喰らっていた小僧の私。A先生、今でもけっこう食べられるのでそこそこ元気だと思います。これがよいかどうかは微妙なところですが。いつまでもほどほどに元気でいられるように頑張ります。
ああそういえばA先生は今年で80歳になるのか。このところ年賀状のやり取りしかしていない。